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誰かの日常をしたためた日記が、それを拾って読んだ別の誰かの意識を変えてしまうかもしれない。いや、書いた本人が後からそれを読み返した時だって同じことは起こりうる。チュウソツシスターズのアルバム『チュウソツシスターズ2018』は彼女たちの旅のしおりであり、探しものに悩む旅人にとってのランドマークだ。それは身近にあったのに見落としていたのかもしれないし、気が遠くなるほどの時間を経てやってきた先にぽつんと置かれているのかもしれない。本作のレコーディング・プロデュースを手がけた坂出雅海氏が彼女たちに寄せたコメント、「やっと見つけた」を共有できる人はきっと少なくない。


ダダに間に合わなかったことを悔いたり、パンクを忘れられないままでいる人々もチュウソツシスターズには間に合う。「芸術」、「アングラ」、そして「パンク」。今日では欺瞞で水増しされているとわかりつつも、なあなあで使ってしまう言葉たちは彼女たちにふさわしくない。少なくとも『チュウソツシスターズ2018』においては、反芸術を標ぼうする気性の荒さや未来はないと叫ぶポーズよりも、「猫ふんじゃった」の方が価値がある。安易に自分の内面を開陳する(できると思っている)作家は、明晰であろうとするゆえに内に留まる混沌から目を背ける。そうしていては、彼女たちの「No.5」、「ひとりの帰り道」、「ケミカルウォッシュ」、これらの闇に吸い込まれていく反響のような歌には届かない。


CDについて書く場所で恐縮だが、チュウソツシスターズのライヴについても触れておきたい。というのも、目の前で動く彼女たちを見れば、冒頭で出したランドマークという形容が真実味を帯びるだろうから。彼女たちが機械のネジを巻くように動き回ると、楽器たちは(目の前で弾かれているにもかかわらず)ひとりでに鳴り出すかのよう。そこでは演目(曲名)が書かれたスケッチブックも、ベースに貼られたTHE BACK HORNのステッカーも己を忘れて歌っている。79年にThe Mekonsがステージ上に置いたボロボロのソファを宇宙船と呼んだ、その瞬間に立ち会えなかったことを悔やむ必要はない。チュウソツシスターズに間に合うとは、そういうことなのだ。

平山 悠 Yu Hirayama
執筆業。主な研究分野は秘教史アーカイヴとインディーズ作家の記録。著書に『ナース・ウィズ・ウーンド評伝』(DU BOOKS)、『vanity records』 (KYOU RECORDS)  アルバムレヴューと一部インタビュー英訳。

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